映画『来る』のクライマックスで強烈な印象を残すのが、田原家を取り囲んで行われる大規模な祓いの儀式です。
日本各地から集まった祈祷師や霊媒師たちが一斉に儀式を行い、田原家に迫る「あれ」に立ち向かいます。
「なぜあれほど大量の祈祷師が必要だったのか?」
「最後に集まった祈祷師たちは何をしていたのか?」
「琴子が指揮する儀式にはどんな意味があるのか?」
この記事では、映画『来る』に登場する祈祷師と最後の儀式の意味について、ネタバレありで考察していきます。
『来る』の祈祷師たちは何者なのか?
『来る』の終盤では、比嘉琴子(松たか子)が中心となり、日本各地から霊媒師や祈祷師たちを集めます。
映画では、田原家に取り憑いた「あれ」が非常に強力な存在として描かれています。
そのため、一人の霊能者だけで対処するのではなく、多数の専門家による大規模な「祓い」が必要になったと考えられます。
作品の公式紹介でも、琴子の呼びかけによって日本中の霊媒師が田原家に集結し、かつてない規模の「祓いの儀式」が始まると説明されています。
ここが『来る』という映画の大きな特徴です。
一般的なホラー映画なら、霊媒師が一人で怪異と対決する展開になりがちです。
しかし『来る』では、まるで大規模な祭りや戦争のように、数多くの祈祷師が集まります。
この異様な光景そのものが、映画の恐怖と迫力を生み出しています。
なぜ琴子は大量の祈祷師を集めたのか?
最大の理由は、それだけ「あれ」の力が強かったからでしょう。
真琴や琴子のような強い霊能力を持つ人物でさえ、簡単には対処できません。
特に琴子は、日本最強クラスの霊媒師として描かれています。
それにもかかわらず、多くの祈祷師を必要としたことからも、「あれ」が通常の悪霊とは比較にならない存在だったことが分かります。
さらに重要なのは、琴子が単純に「あれを消滅させる」だけを考えていたわけではないと考えられる点です。
田原家周辺を大規模に取り囲み、さまざまな人間がそれぞれの役割を担って儀式を進める。
これは、一種の結界を作り、怪異を封じ込める作戦として見ることができます。
最後の儀式は何をしていた?
映画『来る』の最後に行われる儀式は、作品最大の見せ場です。
田原家の周囲には多数の祈祷師たちが配置され、神職を思わせる衣装の人物や巫女姿の女性たちなども登場します。
そして琴子を中心に、集団で「あれ」を祓おうとします。
この場面は、単なる除霊シーンというよりも、巨大な怪異を人間側の総力で押さえ込む戦いとして描かれています。
映画評論でも、原作の終盤とは異なり、映画版ではマンション周辺を巻き込んだ大規模な祈祷バトルへと変更されていることが指摘されています。
つまり、映画版の『来る』では「祈祷そのもの」がアクションシーンのように演出されているのです。
祈祷師たちがバラバラになる理由
儀式の途中では、祈祷師たちが「あれ」の強烈な力にさらされ、危険な状況になります。
ここも重要なポイントです。
「あれ」は単純に一か所から攻撃してくる存在ではありません。
広範囲に影響を及ぼし、人間の恐怖や不安を利用するような存在として描かれています。
そのため、祈祷師たちが一か所に集まり続けること自体が危険になります。
このシーンは、集団なら絶対に勝てるわけではないことを示しているとも考えられます。
人数が多ければ勝てるという単純な話ではなく、最後には琴子のような強力な霊媒師の力が必要になるのです。
琴子はなぜ「あれ」を祓えるほど強いのか?
琴子の強さは、妹の真琴との対比を見ると分かりやすくなります。
真琴にも霊的な能力がありますが、琴子はさらに強大な力を持つ存在として登場します。
映画では琴子自身も決して万能ではありません。
むしろ終盤では、「あれ」がどれほど危険な存在なのかを身をもって示す場面があります。
それでも琴子が最後まで儀式を続けるのは、自分自身が「あれ」と対峙できる数少ない存在だからです。
そのため、最後の儀式は単なる集団除霊ではありません。
多数の祈祷師が「あれ」を弱らせ、その中心で琴子が決着をつけようとする作戦
と考えると理解しやすくなります。
『来る』の祈祷師は本物なの?
映画を見た人の中には、
「最後の祈祷師たちは本物なの?」
と疑問に思った人もいるでしょう。
この映画の儀式シーンは、単なるファンタジー的な演出ではなく、実際の宗教儀礼を意識した作りになっています。
ただし、映画で描かれている「あれ」の存在や、それを祈祷によって退けるという部分は、あくまでホラー作品の設定です。
つまり、
現実の祈祷師が映画と同じ方法で怪異と戦っている
という意味ではありません。
映画として、神道や民間信仰などを思わせる要素を取り入れながら、壮大な「祓い」の場面を作り上げていると考えるのが自然でしょう。
原作『ぼぎわんが、来る』との違い
『来る』の祈祷師と儀式を考えるうえで重要なのが、原作との違いです。
映画の原作は澤村伊智の小説『ぼぎわんが、来る』。
原作では映画ほど大規模な祈祷バトルにはなっていません。
映画版では琴子を中心に、日本中から祈祷師たちが集まって大規模な儀式を行いますが、これは映画ならではの大きなアレンジです。
また、原作では「ぼぎわん」という存在について、より具体的な背景が描かれています。
一方、映画では最後まで「あれ」の正体を明確に説明しません。
この違いによって、映画版では「あれ」がより得体の知れない存在になっています。
なぜ映画では「祈祷師軍団」が必要だったのか?
個人的に重要だと思うのは、祈祷師の人数そのものです。
数人ではなく、大勢。
これは「あれ」の恐ろしさを視覚的に表現するための演出とも考えられます。
普通なら、
「霊媒師が来たからもう安心」
となるところです。
ところが『来る』では、
「日本中の霊媒師を集めても、それでも危ない」
という状況を作っています。
だからこそ、最後の儀式が始まった瞬間に、
「ここまでしないと勝てない相手なのか」
という恐怖が生まれるのです。
そして、この大規模な儀式が映画『来る』最大の見どころの一つになっています。
祈祷師たちの儀式は「あれ」との戦争だった?
最後の儀式を一言で表すなら、私は**「人間側の総力戦」**だと考えます。
それまでの『来る』では、登場人物たちが個別に怪異と向き合ってきました。
しかし最後は違います。
琴子、祈祷師、霊媒師、そして周囲の人々までが一つになって「あれ」に立ち向かいます。
ホラー映画でありながら、終盤だけは大規模な戦争映画のような雰囲気になるのです。
その大胆な演出こそが、『来る』という作品の最大の魅力なのかもしれません。
まとめ
映画『来る』の祈祷師と最後の儀式は、単なる除霊シーンではありません。
琴子が日本各地から祈祷師や霊媒師を集めたのは、田原家を襲う「あれ」が非常に強力な存在だったからだと考えられます。
そして最後の儀式は、多数の祈祷師によって「あれ」を封じ込め、琴子が中心となって対抗する総力戦として描かれています。
原作『ぼぎわんが、来る』では終盤の展開が映画とは大きく異なり、映画版の大規模な祈祷バトルは中島哲也監督による映像作品ならではのアレンジです。
だからこそ『来る』のラストは、日本ホラーとしては非常に異色。
「幽霊から逃げる」のではなく、日本中の祈祷師を集めて怪異を迎え撃つ。
この発想が、映画『来る』を唯一無二のホラー作品にしているのではないでしょうか。


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